先 日、公開したばかりの「沈まぬ太陽」を見てきました。主演の渡辺謙氏には、今年の6月テレビで偶然に見た刑事の演技で感銘を受け(若い俳優、荻原さんの犯 人役の鬼気迫る演技にも感動!)、「彼の肝煎りの作品なら是非見よう」と思い、いつもは巷の良い評判を確認してから映画を見に行くのですが、今回はそれを 待たずに行きました。
正 直な感想は、大作「レッドクリフ(赤壁)」の時と同じ。有名な俳優は沢山出ているけれど、作品としてのメッセージがいまひとつ伝わってこないのです。原作 は残念ながらまだ読んだことは無いのですが、きっと文字で読むほうが感動するのではないかと感じました。作品を創造するときに、何を表現媒体の中心に据え るのか―文字なのか、映像なのか、音なのか―によって、同じストーリーを基にしていても内容の抽出の仕方が変わってくるはずです。今度の映画は(読んでい ないので想像ですが)もしかしたら原作に呑まれてしまったのかもしれないな、と。主人公の心の葛藤に内容を絞り、説明的なストーリーラインはもっと簡略に して、最後のアフリカの広大な大地に帰依する主人公の感情に心から共感させるやり方もあったのではないか。
この映画を見ていて、日本を代表する作曲家の一人、佐藤聰明氏が、音と映像の関係についてお話されていたことを思い出しました。
佐藤氏には6月に国際教養大学(AIU)で3日間、日本の伝統音楽や映像音楽についてレクチャーしていただきました。私の音楽のクラスと、ドン・ニルソン 教授の哲学のクラスと合同で招聘しましたので、内容は音楽から哲学まで多岐に渡りましたが、私にとって最も印象深かったのは「映画における音楽」について の講義でした。
教材に選ばれた映画は2本、Ron Fricke の"Baraka(「バラカ」)"と、小林正樹の「怪談"Kwaidan"(1965)」。「バラカ」は "A World Beyond Words" とサブタイトルに書かれているように、全く言葉が使われず、音楽(佐藤氏の音楽も一部使われている)と映像だけで成り立っています。映像はとても美しく、世界中の精神的に神聖な場所が鮮明なカラーでスクリーンに次々と映し出され、音楽がそれを伴奏する。
全編を見終わって照明が点いた時、学生の一部からはフゥーっと溜め息が聞こえたようでしたが、佐藤氏が最初に放った言葉は衝撃的でした。
「音楽はいらない。」(私はこの言葉に思わず一人だけで拍手を送りました!)
「映像そのものが伝えるメッセージをもっと大切にし、音楽に頼ってごまかすようなことをすべきではない。」
正にその通りです。音楽にはその音の並びや和声などにより、心に一定の感情を喚起する力があり、映像に間違った音楽を付けると、映像の運んでくる意味合い が全く違ったものになってしまう。「バラカ」におけるインドのガンジス川火葬の場面でも、音楽が余りにも神々しい印象を演出し、映像と不釣合いだったよう に記憶していますし、それぞれの場面を自分の感情に正直に受け入れることを音楽によって阻まれている思いが強く残りました。ですから、映像で観客にメッ セージを伝え、それぞれに考えてもらいたいのなら、音楽が感情を一定の方向に誘導してしまわないように極力気を付けなければいけないのです。音楽家は 「音」の持つこの「魔力」を知っていますから、日常の生活でも悪戯に音楽を聴くことを好みません。今日の社会では、音楽が安易に、無神経に使われすぎてい るのではないでしょうか。そして音の力に対しても、無感動になっているのではないか。
今 回の「沈まぬ太陽」でも、音楽の使い方が気になりました。映像が伝えてくる感情を観客が認識する前に、音楽によって一定の感じ方を強く示唆され、押し付け られてしまうので、心からの感動ができません。(これはパターンが決まっている時代劇シリーズや低予算のテレビ用ドラマなどでよくみられるやり方ですが、 こういう安易なマナリズムに頼るのはいかがなものか・・)
ちなみに、佐藤氏が選んだもう一つの映画「怪談」では、武満徹氏が音楽を担当され、音楽と映像の融合が素晴らしいことで映画史上に永遠に残る名作です。佐 藤氏は、その中の「耳なし芳一」で、琵琶の語り(故鶴田錦史女子)が入った壇ノ浦の合戦の場面を取り出してレクチャーしてくださいました。琵琶の弾き語り の心を打つ深い響きと、映像の悲劇的な場面が絶妙に絡み合い、心に強く迫ってきます。
鶴田錦史さんは、琵琶という楽器の魅力を世界に知らしめた方として有名です。皆さんも是非ご覧になってみてください。
正 直な感想は、大作「レッドクリフ(赤壁)」の時と同じ。有名な俳優は沢山出ているけれど、作品としてのメッセージがいまひとつ伝わってこないのです。原作 は残念ながらまだ読んだことは無いのですが、きっと文字で読むほうが感動するのではないかと感じました。作品を創造するときに、何を表現媒体の中心に据え るのか―文字なのか、映像なのか、音なのか―によって、同じストーリーを基にしていても内容の抽出の仕方が変わってくるはずです。今度の映画は(読んでい ないので想像ですが)もしかしたら原作に呑まれてしまったのかもしれないな、と。主人公の心の葛藤に内容を絞り、説明的なストーリーラインはもっと簡略に して、最後のアフリカの広大な大地に帰依する主人公の感情に心から共感させるやり方もあったのではないか。
この映画を見ていて、日本を代表する作曲家の一人、佐藤聰明氏が、音と映像の関係についてお話されていたことを思い出しました。
佐藤氏には6月に国際教養大学(AIU)で3日間、日本の伝統音楽や映像音楽についてレクチャーしていただきました。私の音楽のクラスと、ドン・ニルソン 教授の哲学のクラスと合同で招聘しましたので、内容は音楽から哲学まで多岐に渡りましたが、私にとって最も印象深かったのは「映画における音楽」について の講義でした。
教材に選ばれた映画は2本、Ron Fricke の"Baraka(「バラカ」)"と、小林正樹の「怪談"Kwaidan"(1965)」。「バラカ」は "A World Beyond Words" とサブタイトルに書かれているように、全く言葉が使われず、音楽(佐藤氏の音楽も一部使われている)と映像だけで成り立っています。映像はとても美しく、世界中の精神的に神聖な場所が鮮明なカラーでスクリーンに次々と映し出され、音楽がそれを伴奏する。
全編を見終わって照明が点いた時、学生の一部からはフゥーっと溜め息が聞こえたようでしたが、佐藤氏が最初に放った言葉は衝撃的でした。
「音楽はいらない。」(私はこの言葉に思わず一人だけで拍手を送りました!)
「映像そのものが伝えるメッセージをもっと大切にし、音楽に頼ってごまかすようなことをすべきではない。」
正にその通りです。音楽にはその音の並びや和声などにより、心に一定の感情を喚起する力があり、映像に間違った音楽を付けると、映像の運んでくる意味合い が全く違ったものになってしまう。「バラカ」におけるインドのガンジス川火葬の場面でも、音楽が余りにも神々しい印象を演出し、映像と不釣合いだったよう に記憶していますし、それぞれの場面を自分の感情に正直に受け入れることを音楽によって阻まれている思いが強く残りました。ですから、映像で観客にメッ セージを伝え、それぞれに考えてもらいたいのなら、音楽が感情を一定の方向に誘導してしまわないように極力気を付けなければいけないのです。音楽家は 「音」の持つこの「魔力」を知っていますから、日常の生活でも悪戯に音楽を聴くことを好みません。今日の社会では、音楽が安易に、無神経に使われすぎてい るのではないでしょうか。そして音の力に対しても、無感動になっているのではないか。
今 回の「沈まぬ太陽」でも、音楽の使い方が気になりました。映像が伝えてくる感情を観客が認識する前に、音楽によって一定の感じ方を強く示唆され、押し付け られてしまうので、心からの感動ができません。(これはパターンが決まっている時代劇シリーズや低予算のテレビ用ドラマなどでよくみられるやり方ですが、 こういう安易なマナリズムに頼るのはいかがなものか・・)
ちなみに、佐藤氏が選んだもう一つの映画「怪談」では、武満徹氏が音楽を担当され、音楽と映像の融合が素晴らしいことで映画史上に永遠に残る名作です。佐 藤氏は、その中の「耳なし芳一」で、琵琶の語り(故鶴田錦史女子)が入った壇ノ浦の合戦の場面を取り出してレクチャーしてくださいました。琵琶の弾き語り の心を打つ深い響きと、映像の悲劇的な場面が絶妙に絡み合い、心に強く迫ってきます。
鶴田錦史さんは、琵琶という楽器の魅力を世界に知らしめた方として有名です。皆さんも是非ご覧になってみてください。