6月1日 音楽におけるコミュニケーション

私は、音楽とは究極の「コミュニケーション」であり、また究極の「自由の表出」であると考えています。作曲家がその作品を通してメッセージを送り、それを演奏者が自分のフィルターを通して再構築し、聴衆に伝える。聴く者は演奏から作品の持つメッセージを受けとり、共感や驚きの体験を通して自分の内面に新しい世界を発見する。

言葉では上手く表現ができないのですが、音楽作品における「音」とは、ただ一つ一つの音の羅列や重なりではなくて、それぞれの音が関係性の上に成り立ち、意味を持っているのです。その関係性を理解することが大変重要であり、またその理解の上に無限の解釈の可能性がある。ここに音楽が究極のコミュニケーションであり、自由の象徴という理由があると思っています。

例えば、バロックの作品を演奏するとき、16分音符が多く並んでいるような箇所がありますが、それらはすべて平等に弾くのではなく、和声を感じながら弾いて行くと、自ずと特別で目立たせたい音と、和声の一部としてすっと軽やかに過ぎていく音とがあります。また和声の感じ方によって、弦楽器の場合は音程を微妙に変えることによって、いわゆる「色彩」を加えていきます。バッハなどを弾いていると、何度演奏しても違った解釈の可能性や、新しい発見があったりして、いくら勉強してもし尽くすことはありません。

簡単な例を一つ出して見ましょう。フィオッコ作の「アレグロ」の、冒頭フレーズの終わりの2つの8分音符。これは楽譜に書かれた音価は同じ8分音符ですが、決して同じに弾いてはいけません。最後から2つ目の8分音符の「ド」の音は、和声的には「アポジャトゥーラ」というもので、次の「シ」音で協和音の響きに解決する前に、一音高い音で不協和音を作り出す目的で置かれているので、強調される音なのです。バロックの和声では、協和音に解決される前の不協和音が強く意識されるのです。それらの和声の動きを理解しなければ、バロックは演奏できません。勿論どの時代の作品も和声を理解する必要はありますが、ロマン派や現代曲になると、何となく感覚でごまかせる場合もあるのです。

この間も久しぶりに弾いてみたバッハの作品の中で、重音の延ばしのところ、下の2分音符を先ほどのアポジャトゥーラの上音が次の音で解決するまでしっかり延ばしたほうが良いということを、改めて認識した箇所がありました。

 

秋田の国際教養大学にスズキ・メソードの子供たちが演奏をしに来るということで、今年の春は授業を持っていない私も、とんぼ返りでお手伝いに行ってきました。子供たちは皆さんとてもよく弾いていて、観客も感心しきり。ただ、私は今まで書いてきたような和声に対する知識=感覚が演奏から感じられないことを、大変残念に思いました。

やはり、音楽の真の楽しみは、これらのことに感覚を研ぎ澄まし、新しい発見をしていくことにあります。子供の時から訓練していくに越したことはありません。多くの日本人はこの和声感覚を持たないで演奏してしまうので、ヨーロッパなどで、日本人的演奏=正確だけれど平坦で色彩や動きのない演奏 といわれることも多くあります。

和声の感覚を伸ばしていくには、やはり室内楽=アンサンブルを多く勉強、経験することがよいと思います。これは機会があるたびに、私が最近色々なところで推奨していることなのですが、ヴァイオリンを習っている人は、ピアノも同時に習得して、和声を色々と試したりすることもお勧めします。

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このページは、Reiko Watanabeが2010年6月 1日 02:39に書いたブログ記事です。

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