2009年10月アーカイブ

20091006 013.jpg台北から帰って、数日身体を休めてから先週末に秋田へ飛び、一日掛けて畑の収穫をしました。今年は期待していた秋茄子が余り成功せず、その代わりにイモ類が大変な豊作でした。ジャガイモは夏に沢山収穫しましたが、今回は里芋、サツマイモ、その他にブロッコリー、ほうれん草、長ネギ、大根、ピーマン、唐辛子、ミントやカモミール、イタリアン・パセリなどを収穫し、私達のコーチ役をしてくださっている伊藤さんからもキャベツや白菜、蕪をいただき、それらを大きなダンボ kurikoma 004.jpgール2箱に詰めて、東京の自宅に宅配しました。

伊藤コーチ、農園の仲間で同僚の日本語の阿部先生とビジネス科のニシカワ先生も加わって、一緒に芋掘り。茎を引っ張りながら、地下からどんな芋が出てくるか、皆で子供のようにワクワクしながら作業しました。私も久しぶりに、土に触れる楽しみを味わいました。

残念だったのは、紅葉の美しい秋田の山に今回は登る時間がなかったこと。悔しいので、去年秋に栗駒で撮った写真を載せます。

 

日曜に東京に戻ってからは、11月27日に世界初演する新実徳英氏の新作ヴァイオリン協奏曲の練習に本格的に取り掛かり、また届いた野菜を調理するのに必死の毎日です。ほうれん草やブロッコリーは、直ぐに茹でていただきましたが、やはり採れたては美味しい!普段スーパーマーケットで買っているものと味わいがまるで違います。唐辛子は刻んで、やはり畑から持ち帰ってきた大量の紫蘇の実と一緒に瓶に詰め、それに麹を入れて醤油をヒタヒタに口まで注ぎ、そのまま一ヶ月冷暗所に置くと、美味しいスパイスが出来上がります。鍋やご飯のおかずに最適の調味料です。

 

先日、公開したばかりの「沈まぬ太陽」を見てきました。主演の渡辺謙氏には、今年の6月テレビで偶然に見た刑事の演技で感銘を受け(若い俳優、荻原さんの犯人役の鬼気迫る演技にも感動!)、「彼の肝煎りの作品なら是非見よう」と思い、いつもは巷の良い評判を確認してから映画を見に行くのですが、今回はそれを待たずに行きました。

正直な感想は、大作「レッドクリフ(赤壁)」の時と同じ。有名な俳優は沢山出ているけれど、作品としてのメッセージがいまひとつ伝わってこないのです。原作は残念ながらまだ読んだことは無いのですが、きっと文字で読むほうが感動するのではないかと感じました。作品を創造するときに、何を表現媒体の中心に据えるのか―文字なのか、映像なのか、音なのか―によって、同じストーリーを基にしていても内容の抽出の仕方が変わってくるはずです。今度の映画は(読んでいないので想像ですが)もしかしたら原作に呑まれてしまったのかもしれないな、と。主人公の心の葛藤に内容を絞り、説明的なストーリーラインはもっと簡略にして、最後のアフリカの広大な大地に帰依する主人公の感情に心から共感させるやり方もあったのではないか。

 

この映画を見ていて、日本を代表する作曲家の一人、佐藤聰明氏が、音と映像の関係についてお話されていたことを思い出しました。

 佐藤氏には6月に国際教養大学(AIU)で3日間、日本の伝統音楽や映像音楽についてレクチャーしていただきました。私の音楽のクラスと、ドン・ニルソン教授の哲学のクラスと合同で招聘しましたので、内容は音楽から哲学まで多岐に渡りましたが、私にとって最も印象深かったのは「映画における音楽」についての講義でした。

 教材に選ばれた映画は2本、Ron Fricke "Baraka(「バラカ」)"と、小林正樹の「怪談"Kwaidan"(1965)」。「バラカ」は "A World Beyond Words" とサブタイトルに書かれているように、全く言葉が使われず、音楽(佐藤氏の音楽も一部使われている)と映像だけで成り立っています。映像はとても美しく、世界中の精神的に神聖な場所が鮮明なカラーでスクリーンに次々と映し出され、音楽がそれを伴奏する。

全編を見終わって照明が点いた時、学生の一部からはフゥーっと溜め息が聞こえたようでしたが、佐藤氏が最初に放った言葉は衝撃的でした。

「音楽はいらない。」(私はこの言葉に思わず一人だけで拍手を送りました!)

「映像そのものが伝えるメッセージをもっと大切にし、音楽に頼ってごまかすようなことをすべきではない。」

 正にその通りです。音楽にはその音の並びや和声などにより、心に一定の感情を喚起する力があり、映像に間違った音楽を付けると、映像の運んでくる意味合いが全く違ったものになってしまう。「バラカ」におけるインドのガンジス川火葬の場面でも、音楽が余りにも神々しい印象を演出し、映像と不釣合いだったように記憶していますし、それぞれの場面を自分の感情に正直に受け入れることを音楽によって阻まれている思いが強く残りました。ですから、映像で観客にメッセージを伝え、それぞれに考えてもらいたいのなら、音楽が感情を一定の方向に誘導してしまわないように極力気を付けなければいけないのです。音楽家は「音」の持つこの「魔力」を知っていますから、日常の生活でも悪戯に音楽を聴くことを好みません。今日の社会では、音楽が安易に、無神経に使われすぎているのではないでしょうか。そして音の力に対しても、無感動になっているのではないか。

 

今回の「沈まぬ太陽」でも、音楽の使い方が気になりました。映像が伝えてくる感情を観客が認識する前に、音楽によって一定の感じ方を強く示唆され、押し付けられてしまうので、心からの感動ができません。(これはパターンが決まっている時代劇シリーズや低予算のテレビ用ドラマなどでよくみられるやり方ですが、こういう安易なマナリズムに頼るのはいかがなものか・・)

 ちなみに、佐藤氏が選んだもう一つの映画「怪談」では、武満徹氏が音楽を担当され、音楽と映像の融合が素晴らしいことで映画史上に永遠に残る名作です。佐藤氏は、その中の「耳なし芳一」で、琵琶の語り(故鶴田錦史女子)が入った壇ノ浦の合戦の場面を取り出してレクチャーしてくださいました。琵琶の弾き語りの心を打つ深い響きと、映像の悲劇的な場面が絶妙に絡み合い、心に強く迫ってきます。

鶴田錦史さんは、琵琶という楽器の魅力を世界に知らしめた方として有名です。皆さんも是非ご覧になってみてください。

  

台北から18日に帰ってきました。

12日の行きの飛行機の中で浅田次郎氏の機内誌エッセイを読んで考え始めた私の「東北」考、周りの意見を聞いたりしながら色々考えをめぐらせ、自分なりの結論が何とかまとまりました。

 

まず浅田氏のエッセイの内容を掻い摘んで書かなければ、皆様に話が通じませんね。

内容は幾つかのエピソードで構成されています。温泉が大好きな浅田さんが、雑誌の取材のために上州のある温泉をカメラマンと編集者と3人で訪ね、共同浴場でお湯に足を入れた途端、3人続けざまにコケ、一人は腕を折ってしまったことが後で判明するほどのハデさで転んでしまった。それを見ていた地元の男性は、「お騒がせして、すんません」と詫びる浅田さん一行の怪我をいたわるどころか、怪訝な顔をした上、後で追い討ちをかけるように更なる叱責を浴びせた、とか。第2のエピソード、これは東北が舞台です。東北のある温泉に、ふと立ち寄ろうと思い立ち、新幹線から温泉の観光協会に電話をかけて宿の手配を頼む。電話に応対に出た男性は、「ちょっと待ってくださいよ」と答え、電話をほっぽらかしたまましばらく談笑らしき音声。しばらくして、やっと「何名様ですか」と訊くので、一人と告げると「そりゃダメです、話にもなりません」と言う台詞と共に一方的に電話が切れた。(=相手が電話を切った)

 

私も2004年から秋田の国際教養大学(AIU)で集中講義を行うようになり、秋田を筆頭に東北とも随分ご縁が深くなりました。授業を持っている期間は、秋田の温泉や名所にもなるべく時間を見つけて行くようにしていますし、時には岩手や青森、山形や宮城にも足をのばします。そんな機会に、浅田さんの今回の経験談ほど酷くはないけれど、結構ビックリするような応対を受けたことが何度かありました。

例えば、秋田市内の大きな映画館からの帰り道、エレベーターに乗り合わせた子供連れの男性に出口への道順を尋ねたところ、完全に黙殺されてしまったこと。有名な温泉旅館の迎車に乗って、運転手さんに眼前に広がる美しい田沢湖の水深を尋ねると「ここの出身ではないので、知りません」の一言で撃沈され、それでも食い下がって「ご出身は?」と聞くと、すぐ隣の村だった!

この他にも、有名な旅館に五月の連休中宿泊し、「この辺りで今新緑の美しいところはありませんか」と尋ねると、「よく知りません」との返答を頂いたことも!? 先日などはこの同じ旅館に電話して、「来週の土曜日空いているお部屋はありますか?」と尋ねると、「17日ですね?」と、既に過ぎてしまっている土曜日についての返答が来て、度肝を抜かれたことも。 有名な旅館でさえこのような応対をするのですから、時間を大切にしたい旅行者はそれこそ現地の人のサービス精神に期待して行き当たりばったり、というスタイルは避けたほうが無難かもしれませんね。そうやって地元の人の情報で気ままな旅をするのも楽しいはずですが・・。 

このような経験を並べたて、秋田県人は宣伝が下手でサービスに対する意識も低いと結論するのは容易ですが、実はそんな単純な現象ではないのです。というのは一方で、東京やニューヨークなどでは絶対にありえない心からの親切を、利害に関係なく示してくださる秋田の方に会った経験も、また沢山あるのですから。

例えば、私達AIUの教員の畑を完全なボランティアで快く手伝ってくださる伊藤さんを始めとした椿台スーパー農園の方々。私達の作付けに不備があると、こちらが気づかないうちに直しておいてくださいます。他にも、「天然の真鯛だったら興味があるからいつでも持ってきたら下ろしてあげる」と言って、大きな真鯛2匹を本当に無償で刺身にしてくれた上に、鯛の残りでサービスのスープまで作ってくださるスーパー親切なお寿司屋さんもいらっしゃいます。

どうして、こんなにも真逆の性格が同じ土地の人々の中に混在しているのか、不思議でなりません。

 

と、ここまで書いて台北から東京に戻ってきました。

成田空港で入国するまでに、短いエスカレーターがあり、年に4,5回乗る「東京⇔NY便」のときは、乗客は到着時にはエスカレーターなど効率よく団子状態で2列になって乗ります。今度も荷物は多いし、右側の列に押されるように乗ってそのまま立ちました。(エスカレーターは荷物を持って2列の場合、歩いて上るには十分なスペースがないため横の人を引っ掛けてしまう恐れもあり危険です。それに、10秒も掛からないエスカレーターなのだから、慌てることも無いでしょう?)ところが、私の後ろの妙齢(=60代後半?)の男性が無言のままグイグイと激しく押してくるのです。振り返ると、顎で先へ進めと指示してくる。頭にきたので「(英語で)押さないでください、荷物が多くて十分なスペースがありませんから」というと、「(日本語で)チェッ、分かったようなこと言いやがって!」と悪態をついてきました。その後、到着ロビー行きのモノレールに乗るのに、いずれにしても5分は待たされましたから、何のために急いでいたのでしょうね? その男性には、お生憎さまです。

 

このことがあって、今までの自分の思い込みに気がつきました。浅田次郎さんの第2のエピソードは何も東北だから起こったことと考えるべきではない。私は近年東北とご縁が深くなって、「サービス」の面などで時に不満が溜まってきていたので、思わず東北というカテゴリーに限って考えてしまったけれど、これを「コミュニケーション」というレベルに広げてみると、色々な土地で自分と考え方の違う人間の間でこういうミス・コミュニケーションが起こっているのだ、と。

コミュニケーションは、同じ価値観を共有する人間の間では比較的簡単かもしれません。でも、大抵の社会では、自分と違う考え方や要求を持っている人がいるということが分かっていないと、ちぐはぐなコミュニケーションしか出来ませんね。そのような人間関係の経験が豊富か否かで、コミュニケーションのスキルにも差が出てくるのではないか?

秋田のAIUの職員が函館に行って、タクシーの運転手から不愉快な思いをさせられた、という話も聞きました。その女性は「多分その運転手さんは接客ということに慣れていなかったのでしょう」という冷静な意見でした。その見方が正しいのかも知れません。

都会の多様性や便利さに慣れていると、求めた情報は直ぐに与えられると思ってしまいますが、だからといって都会が必ずしも魅力的とはいえません。

田沢湖の水深に無関心だった運転手さんも、新緑情報を与えてくれなかった旅館のフロント係も、外から来る客にはそういう情報に価値があるということを一度は経験された訳ですから、次からはきっと答えてくださることを期待します。

 

いずれにしても、結論として、秋田が私にとって奥深い魅力的な土地であり、またそこに住む人々が好きであることに変わりはありません。

10月13日 台北にて

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20091006.jpg 10月7日に使った「巻物」楽譜の現物写真をお届けします。

 7日のコンサートは心配した台風18号の影響も余り受けず、共演した台北の友人も無事に翌日の飛行機で「巻物」を持って帰国しました。11日には松本「鈴木慎一記念館」でのリサイタル、そしてそのまま成田に一泊して昨日から台北に滞在しています。

 松本へは3連休初日の移動でしたから、朝の「あずさ号」は超満員、翌日の帰りの列車もリュックを背負った登山客でかなり混み合っていました。昨日の成田→台北間は、3連休の最終日だったためか混雑もなく、4時間程のフライトはストレス・フリーの快適な移動になりました。

 機内では、映画や新聞を適当に梯子しながら、JALの機内誌に連載中の浅田次郎氏のエッセイも拝読。シンプルなストーリーにもかかわらず、最後まで緊張感を持続させるテクニックは、いつものことながらお見事!エッセイの内容も東北に関する話題を含んだものでしたので、近年秋田を筆頭に東北とご縁が深くなっている私としても、自分の経験と照らし合わせながら色々と考えを巡らせているところです。このことについては、次回に詳しく書くつもりです。
 数日前に佐藤勝夫先生の指導50周年のお祝いコンサートに参加させていただきました。コンサート後のパーティーで老若男女に囲まれた佐藤先生は、ポジティブで幸せなオーラを放っていらっしゃいました。

 50年=半世紀の間には、社会の色々なシステムも変化し、人々の好みも変わり、その中で自身のモチベーションを変わらず保ち続け、それに向かって努力を続け、且つその努力に周りが報いてくれて、その上健康にも恵まれ、と色々考えていくと、気が遠くなります。どんな分野でも続けていくことで見えてくる「真実」があると思いますが、それは誰にでも得られるものではありません。87歳まで弾き続けた巨匠ミルステインも、あるDVDで「自分は進化し続けるという才能を神から与えられた」と語っています。私の師事したフックス先生も、90代になっても毎朝2時間の練習は欠かさず、終わると私に電話を掛けてきて「今日の新しい発見」について滔々と報告(=自慢)してくれました。

 パールマンも"The Art of Violin"の中で、「40代まで弾き続けるのは奇跡に近い、その歳までにいろんな事が起こって弾けない状況になりうる可能性は高い」というような内容のことを言っています。私もこれまで弾き続けて来られたことを感謝し、これからも自分なりに進化し続ける努力をしたいと思っています。
 
 先日朝青龍が優勝しました。私は大相撲の熱心なファンではありませんが、気が向いた時にテレビで観戦しています。肉体が資本のスポーツ選手は、活躍できる期 間は限られますが、それにしても数々の批判にもめげず、いざという時に自分の力を100%発揮できる朝青龍の肉体と精神力はすばらしいと思います。「練習 不足だ!」という批判があっても優勝できるのだから、間違いなく超一流の能力を持った勝負師ですね。

 一度犯したミスは直ぐに修正できる肉体の瞬発力と集中力は、音楽家としても関心を持つところ。でも、反対にそれが彼の相撲に対するモチベーションを保つこと への障害になっているのかも知れないと感じます。最大限の努力をしなくても優勝できてしまう並外れた才能、そして彼に匹敵する才能を持ち少しの油断も許さ ないライバルの不在、このことが彼の才能が最大の進化を遂げることを阻んでいるのではないか、と。

 いずれにせよ、色々な条件が重なって才能は伸ばされるものなのかも知れませんが、またイチローのように弛まぬ自身の探究心によって、どのような状況も乗り越 え偉大な才能として花開くケースもあります。でもこの「探究心」は、先ほどミルステインが語ったように、究極の「神からの贈り物」なのかもしれません。才 能があり、神から探究心を贈られた者が真の「天才」なのかも。

 只今千葉に宿泊中、明後日のコンサートのために今日からリハーサルを行っています。天気予報では大型台風18号が明後日本州に上陸するとのこと、かなり心配です。

 非公開のコンサートなので一般の皆様には聴いていただけませんが、2台のヴァイオリンのための曲を中心にした珍しいプログラムを組んでみました。中でもコンサートの最後を飾るイザイの「2台のヴァイオリンのためのソナタ」は、17日の台北の演奏会でも演目に上がっていますので、その時に共演する長年の友人でもあり先輩でもある台湾のヴァイオリニスト、Tracy Janis Tuさんには今回のために来日していただいています。

 さて、イザイで一つ困っていたのは、全楽章を通して譜めくり出来る長めの休止がどちらのヴァイオリン・パートにも存在しないこと。これは大問題です!(プロコフィエフの「2台のヴァイオリンのためのソナタ」でも、どこでめくるかが問題になりますが、それでも大抵の作品は必ず譜めくりできるスポットが見つかります。)

 一時間ほど二人で色々思案した挙句、譜面台を4つ並べて曲の進行と共に私達が左から右へ移動していくことに決定。それにしても、譜面台に譜面をきちんと並べる作業だけでも、大変です。例えば、第3楽章はA3サイズのページがトータルで6枚にもなりますから、それをきちんと並べた上に今度は第2楽章を重ねて並べ、またその上に第1楽章の7,5枚 をきちんと並べておかなければなりません。そしてそれぞれの楽章が終わる度に、弾き終わった楽章の譜面を脇に除けて、次を弾き始める。ここで譜面の順番を 間違えて並べたり、どこかで重なってしまって見えなかったりしたら大変ですから、これは思ったよりも複雑で面倒な作業です。時間も掛かってしまうし、どう する・・・?

 こ こで、主催者である駒井鉄工の方が助け舟を出してくださいました。何と、巻物のように長いコピーが出来るとのこと。設計図などで駒井鉄工さんと取引してい るコピーの専門家に、譜面の「巻物コピー(!?)」をお願いできることになりました。これなら、並べ間違いや、途中で重なってしまうというアクシデントも 起きませんし、終わった楽章は床に丸めて置けば大丈夫ですから、問題解決です!
明日の午後には出来上がってくる予定、楽しみです。

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