11月28日 根源的な音を求めて

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10091127.jpg 昨日仙台フィルハーモニー管弦楽団と指揮者の梅田俊明氏と共に、新実徳英氏の新作「ヴァイオリン協奏曲第2番~トルトゥス・ヴィターリス~」を世界初演いたしました。

10月末に集中して練習を始めてから昨日のコンサートまでの一ヶ月は、正に「作曲家の頭の中で理想の音として存在していたものを、具現化して現実世界に送り出す」という、演奏家としての大きな責任に対する緊張感と、自分の創造力を総動員して「新しい音」にチャレンジすることが許されることへのワクワクするような興奮などが綯い交ぜになって、刺激的で密度の濃い時間を過ごしました。

25日に仙台に入り、最初のリハーサルで初めてオーケストラが冒頭部分を弾き始めたとき、極度の興奮を感じていたせいでしょうか、何度も頭の中でシミュレーションしていたはずのオーケストラの前奏部分が数秒間全く理解できず、私のソロが入る所に来ても呆然と立ち尽くすという事態に陥ってしまいました。オーケストラを止めてもらい、それでも数秒間「アレッ、私の理解していたのと違う・・・?」などとスコアをめくりぼやいていたのですが、数十秒で頭の中がリセットされ正常に戻りました。このようなアクシデントが起こったときには、むしろ自分のペースで集中できるようになることが多く、心の中で「よし、これでこの作品に対する最初のイニシエーションは完了!」と自分に言い聞かせました。それからはリハーサルの回を重ねるごとに、オーケストラの中のそれぞれの楽器の音形やフレーズの繋がりが、音の流れの中で段々に聴き取れるようになり、それに伴って作品に対する自分の音楽的姿勢もクリアになっていきました。

聴衆の大きな拍手と共にコンサートが終わり、何人かの方から直接に「あなたのこの曲に対する共感が強く伝わってきて、この音楽に深く引き込まれた。」と言われた時にはとても嬉しく、また新実徳英氏ご自身が「とても感動した」とおっしゃってくださった時には、大役を果たせたことに心からほっとして幸福に感じました。

 

上の写真はコンサート後の打ち上げ会で、新実氏、梅田氏と撮ったスナップです。新実氏だけフォーカスが少しぶれているので、1120日のブログに書いた「世界初演づくし」のコンサートにおいて、西村朗氏がステージで語ったエピソード的ジョークを思い出しました。音楽における「ゆらぎ」を大切にしていると語る伊藤氏に対して「それは新実さんや池辺さんが酔っ払ってユラユラしているような「揺らぎ」と同じようなことでしょうか??」 この写真を撮った時も、新実先生は美味しい日本酒を楽しんでいらっしゃいましたから、少々「揺らい」でいたのかも:-)

 

リハーサルからコンサートまでの数日間、新実先生には音楽について数々の興味深いお話を聞かせていただきましたが、その中で最も強く私の心に残ったのは次のような言葉です。「僕は自分の音楽に革新的な音を特に求めていない、根源的な音を求めている。」

この言葉は正に音楽の本質的な力を語っているのではないでしょうか。

私達の中に眠っている根源的な力=エネルギーを呼び起こさせるものとしての「音楽」。

 

今回の協奏曲では、第1楽章は「意識界」、第2楽章は「無意識界」、第3楽章は「無我」に通じていると新実氏はプログラムノートに書いています。第2楽章で、オーケストラとヴァイオリンの独奏が螺旋を描くように無意識界を上昇したり下降したりしますが、ある地点に到達すると管楽器群の低いC#音の繰り返しと共に、まるでチベット仏教で吹かれるホルンさながらに大地を揺るがすような低音の強いエネルギーを送り始める。この瞬間、私はとてつもなく大きなエネルギー的根源と一体になったような感覚に捉えられ、私の意識が肉体を突き抜けて宇宙的な力と合体するような気持ちになりました。この感覚は、250年以上前の偉大なJ.S.バッハの作品からも強く受けるもので、例えばヴァイオリン独奏で壮大な宇宙的空間を構築するかのような「シャコンヌ」もそうですし、また今年の春に「ゴールドベルク変奏曲」の弦楽トリオ版を演奏したときにも同じような感覚に何度もとらわれました。「神」という至高の存在の現す宇宙的な真理を音楽で表現しようと考えたバッハと、新実先生の求めている「根源的な音」とは、音響的な手段は同じではなくても、意識のレベルでは共通のものを語っているのではないでしょうか?

ところで、第2楽章で大変な苦労をした「9度」音程は、コンサートホールでオーケストラの響きとブレンドすると不思議なほど美しかったことを、皆様にご報告しておきます。ユニバーサルな意識を深く内包する新しい名曲として、これから世界的に多くの演奏会で取り上げられることを願っています。